『あと364回、夢を見る。―六十歳の少年が待つ、新しい相棒―』
「一年です」
ディーラーの営業マンがそう言った瞬間、私は思わず「え?」と聞き返した。まるで何かの聞き間違いであってほしいと願ったのだ。しかし彼は悪びれた様子もなく、むしろ丁寧にもう一度、こう付け加えた。
「現在の納車までの目安は、おおよそ12か月となっております」
納期1年。12か月。52週。365日。
それは、待つにはあまりに長く、しかし手放すには惜しい時間だった。
私は、60歳。世間では“還暦”と呼ばれる年齢に達し、赤いちゃんちゃんこを着せられることもある。だが、私の心にはまだ、少年のような高鳴りが息づいていた。
若いころ、バイクに憧れた。風を切って走る自由。鼓動のように響くエンジン音。あの頃の私にとってバイクは、遠くの世界と自分をつなぐ夢の乗り物だった。だが、家庭があり、仕事があり、何より時間がなかった。いつの間にか手の届かぬ憧れとなり、遠ざけてしまっていた。
そして今。子育てもひと段落し、仕事も早期退職を選んだ。気づけば、手には少しだけ余裕があり、心にはずっと空いていた小さな穴がぽっかりとある。
「やっぱり、今しかない」
そう思って選んだのが、かの名車の最新モデルだった。エンジン音にこだわり、質感に惚れ込み、試乗車にまたがった瞬間のあのフィット感は、初恋に似た胸のざわめきを呼び起こした。
しかし、納車は1年後。試乗したその日が春だったから、次の春まで、私はこの“手に入らないバイク”を夢見て過ごすことになる。
■夢と現実のあいだで
「1年もあれば、気が変わるかもな」
そう言って笑ったのは、大学時代の友人だった。彼はすでに2台のバイクを持っているベテランライダーで、私の挑戦を内心少しからかっている節があった。
しかし私は、逆にその長さに意味を見いだし始めていた。
バイクが届くまでの1年――私はその日数を“準備の時間”と呼ぶことにした。
新しいヘルメットを選ぶ。グローブを試着してみる。メンテナンス用の工具を揃え、ガレージの隅を片づけ、ツーリングマップを広げては、行ってみたい峠道や温泉街に赤いマーカーをつける。
そんな日々が、楽しくてしかたがない。
60歳という年齢が、逆にこの楽しみに深みを与えてくれる。若いころは衝動で動き、すぐに手に入るものばかりを追いかけていた。しかし今は違う。1年待つことが、むしろ悦びなのだ。
それはまるで、熟成されてゆくワインのようでもあるし、長い恋文のようでもある。
■季節を越えて、心のエンジンが目覚める
春。菜の花が咲き、桜のトンネルを自転車で走った。ふと「来年はここを、あの子と走っているかもしれない」と思った。
夏。汗をかきながら庭の草取りをしていると、ふと風が吹き抜けた。その瞬間、あのエンジンの熱気と風の匂いが脳裏に蘇る。
秋。近所のバイクイベントに出かけ、同じモデルを見つけた。話しかけたオーナーは私より10歳若かったが、「待った甲斐、ありましたよ」と笑っていた。その言葉に、私はどこか安堵した。
冬。寒い夜、こたつに入りながらツーリングの妄想マップを広げる。「伊豆か、信州か…それとも能登か」などと考えながら、スープをすする。
そして、気がつけば365日のうち、もう300日が過ぎていた。
■「待つ」ということの意味
現代は、何もかもが“すぐに手に入る”時代だ。ネットでクリックすれば、翌日には届く。知識も、娯楽も、食べ物さえも、すぐに享受できる。
だが、60歳になって気づいた。
“待つ”ことには、時間の価値を味わう力が必要なのだと。
私はこの1年間で、じっくりと“待つ”という感情を思い出した。子供の頃、クリスマスの前に指折り数えていた日々のように。夏休みの前の高揚感のように。
そして何より、「未来の自分」を心から楽しみにする気持ちを取り戻した。
■納車の朝
納車の日は、小雨だった。
しかし私の心は晴れ渡っていた。スーツを着ていこうかと一瞬思ったが、やめた。慣れ親しんだ革ジャンに袖を通し、グローブを確認し、ヘルメットのバイザーを軽く拭いた。
ディーラーで初めて対面した“あの子”は、まるで1年間、私の胸の中で育ってきた夢が、形を持って現れたかのようだった。
静かにエンジンをかける。低くうねるような音が胸に響いた。
私は、60歳。
だがその日、私は間違いなく、少年だった。
■エピローグ:その後の365日
バイクは、単なる移動手段ではなかった。走るたびに心を揺さぶり、新しい発見と出会いをくれた。
ある日、峠の小さな駐車場で、私より少し若い男性に話しかけられた。
「これ、1年待ったって本当ですか?」
「本当ですよ」
「待つ価値、ありましたか?」
私は一瞬だけ考えてから、笑って答えた。
「毎日、夢を見てたんですよ。それを叶えるには、ちょうどいい時間でした」
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